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応答の記録
2026年8月30日(日)13:00-15:00
「カメラ・オブスクラ
部屋をおっきなカメラにして風景をなぞろう」



写真 八木咲
記録:いだはづき 今日の門前仲町、曇ってたな。思うと応答のイベントの日は結構いつも天気が悪い。在日ハンセン病者の詩を読んだ日も音のない雨がひたすら降っていて、その湿度に身を浸すようなひとびとの沈黙が印象的だった。途中で雹のような雨がドタバタと音を立てて降り始めた日もあった。あまりの音は私たちの意識をフォーカスさせる。対話が中断させられみんなで雨を見る時間がうまれた。「うおー」とか「わー」とか鳴き声みたいな超えが頭の上を飛び交った。 天気に左右されることが喜べるのは健康的だと思う。だから対話の前も「門前仲町の音にも耳をすませてほしい」と言ってしまう。 ― 今日も雨は降っていなかったけど空には隙間なく雲が敷き詰められていて、それが止むことはなく、ずっと青い空は見えなかった。それでも明るくなったり暗くなったりはする。グレーの門前仲町。 開場のタイミングでかなり明るくなってきたことに対してみなりさんは「晴れて良かったです」と言っていて、声を出して笑ってしまった。晴れってなんだっけ、でも、晴れと思った時はすべて晴れでいいな。 天気に左右されるカメラオブスクラのワークショップ。今日の光。今日の世界。なんだこれ、うれしい。 ― ひとりひとりがしっかり働きながら窓に暗幕を貼った。部屋を真っ暗にするのは大変な作業だった。高い位置にテープを貼るために、登ったり降りたり、登ったのに忘れ物しててまた降りたり登ったりしてたら、じんわり汗をかいた。ひとりひとりがしっかり働かなくてはいけないことの健やかな充実感。わたしがここに、みんなといる。 ― 部屋が真っ暗になる。電気を消すパチンという音と共に隣にいた人が綺麗に消えた。真っ暗。 ― 暗幕にあけた500円玉ほどの穴から世界が流れ込む。 流れ込んだ世界は、部屋の白い部分に逆さまに映し出された。偶然あけることになった窓。そこからから入る風。昼下がりの音。 その音はいつも鳴っているはずの音で、でもいつもはすごく後ろの方にあるせいでわたしのことを追い越すことはないのだけど、真っ暗な部屋と映し出された反転した風景を見ている間はわたしを追い越すように取り巻いていった。何の音ときかれると適切な言葉がわからない、抽象的な街の音。 ― 一寸の光も許さない真っ暗な部屋には馴染みがあった。映画館だ。上映前の映画館が好き。うるさい広告の後、画面がフッと消えて、全てが黒になるあの瞬間が好き。何も見えなくなった途端、音が急に緊張感を持って耳に入るあの瞬間が好き。 ー FUNEに映し出される門前仲町。曇りの光を反射した門前仲町を見ながら、わたしはヴィム・ヴェンダースのモノクロ映画を思い出していた。少し前に見た『さすらい』と『都会のアリス』。ヴィム・ヴェンダースのロードムービーはほんとうにいい。何も起きない。ただひとびとが見ているものを素直に映しだす。飾らない景色。それが美しいこと、それがいい。 ― 暗闇のなか、わたしは音や景色にあっという間に取り囲まれていて、その没入感に涙が出そうだった。映画のなかに入ったようだ!カメラってほんとうに不思議だなと思う。むかし友人が「レンズを通すと世界が理想的になる」と言っていた。当時のわたしはぼんやりと聞いていたけど、たしかに部屋に映された像はいつも見ている門前仲町で、でもやっぱりどこか違う風に思えるし、それもわたしの心を動かすように異なっている。部屋に映された門前仲町はいつのまにか作品へと、光の表現へと変化していた。 ― いつだか「人がシネマを撮りたくなる瞬間」について話している人がいた。その対話は、それこそカメラオブスクラの話や世界最古の映画の話をしているときで、大昔の映像を見ながら「わたしiPhone16で同じ映像撮ってて笑いました」という言葉にみんなで笑った。駅に電車が流れ込み、人々が吐き出され、また吸い込まれていく映像だった。 ― 終わりにみなりさんは「光は世界を平等に照らしている」といった。なるほどなあ、わたしが1日1本映画を見続けている理由がその言葉にあった気がした。わたしは何かを探すように映画を見ていて、それはいうなれば「光が世界を平等に照らしている」ことかもしれない。
2026年8月26日(水)15:00-17:00
「よくわからない絵となかよくなるための練習」
記録:有賀未来 - 今日はみんなでロスコの「赤の上のオーカーと赤」をみる - さっきまで空だった部屋に、大勢の人が集まっている。殆どが初めて会う人なのに、今から対話をしようとしている。年齢も住んでいる場所も好きなことも違う人々が、「人々」から「私たち」になって言葉を交わそうとしている。当たり前のことなんだけど、すごいことだと思うし、かなり恐ろしい。私の中のわくわくって基本的に恐ろしさだ。 - 中学生の時、初めてロスコの絵を見て怖いと思った。その怖さは、絵そのものが怖かったというのもあるけれど、それ以上に、この絵を前にして自分がどう存在していればいいかわからなかったことに由来すると思う。あれから何年か経ち、あの恐怖は和らいできた(よりにもよって美術大学に進学してしまったから、美術に向き合うほかない!!!←やばい!!!)。美術史や絵画論の知識をごく僅かに手に入れてから、その恐怖はかなり消えた。けれど、もっと何か、その恐怖への向き合い方があるんじゃないかと思った。知識がなくても、ただ絵そのものに向き合うとき、恐怖以外の何かが生まれてはくれないか。というか、その恐怖ごと楽しめたらいいと思った。知識を手にいれる以前に、どう向き合うか、みたいなことについてずっとみんなで話し合いたかった。 - 「うまくまとまってなくてもいいし、かっこよくなくていいので、本当に思ったことを話し合ってみたいです」と伝えた時、一番安心したのは、それを言った自分自身だったと思う。「わたしにも描けそうな絵なのに、どうしてこんなに有名なんだろう」と言ってくださった人がいた。そもそもの、さらにそもそもの部分を話そうと思ってくれたこと、それに頷いてくれる人が何人もいてくれたことが嬉しい。私にも同じように本当に描けるのか、私も知りたい。模写したい。使う画材も絵のサイズも全部再現したい。もはや二時間だけのワークショップとかじゃなくて二週間くらいの合宿みたいになってしまう、のか。 -「動きが見える」「これが扉だとしたら、誰かが開けてしまいそう」言い切ってしまえば四角形が重なっているだけの絵だけど、そこで何かが蠢いているのをみんなが発見している。色のせいか、形のせいか、滲みのせいか。 - みんなでタイトルをつけた。例えば絵の中の色、形、質感が、何に似ているかという話から名付けた人もいれば、自分の内側の経験からタイトルをつけてくれた人もいて、それぞれがそれぞれの目線から、全く違う意味をこの絵から見出していた。けれど書き出してみると、思わぬところで繋がっていたりする。「砂」「土」「扉」「訪れる」「内側と外側」「焦燥感」「台北」「顔」・・・バラバラのタイトルの中に潜んだ単語たちの内側に、じっと目を澄ますと見えてくる繋がりがある。 - ワークショップにはロスコの絵を知っている人も、知らない人も沢山来てくださった。対話の中で「何も知らない状態ではじめて見れるのが贅沢」と言ってくれた。知識があれば見えてくるものはあるけれど、知識がないからこそ見えてくるものだってある。今、ここにいる、誰でもない私、だけができる絵の見方がある。繰り返し言うように本当に当たり前のことなんだけど、果てしない気持ちになってしまった。私たちが存在することって、何て贅沢なんだろう。 - 今日はモニターと図版のコピーを見ながら対話をしたけれど、いつかは本物の絵画を目の前にして話し合ってみたい。美術館の中のほんもの絵と向き合った時にしかできない見方と、あらわれてこない言葉がある。(同時に、この画質の荒い、小さなコピーだからこそ見えてくるもの、言葉もある、と、信じている)
2026年8月12日(水)19:00-21:00
「かたん」
記録:やんう 18:53 歯を磨く前には2人来ていたのだが、歯を磨いてトイレから出ると、いつの間にか人でいっぱいになっていた。みんな同じ電車にでも乗ってきたのだろうか。 参加者の中には、ハヅキの回に来てくれた人もいて、嬉しい気持ちになった。しかし、ほとんどは初めて見る人たちだった。 円の中央には緑色のファイル(憲法に関する資料)が置かれている。 内容を適当に眺めてから置く人、そのままずっと読んでいる人、宙を見つめている人。 サングラスをかけた男性(最初に来た人)が気になる。サングラスをかけているので瞳が見えず、私と目が合っているのか、それとも宙を見ているのかわからない。それにしても、外はもう日が暮れていて、部屋の中にも大きな照明がないのでかなり暗いのだが、ちゃんと見えているのだろうか。 18:57 ミナさんがなかなか席を決められずにいる。ぐるぐる回った末、また私の隣の席に戻ってきた。それくらい部屋がいっぱいだということだろう。 その間にエアコンの温度を下げなければならなかった。 確かに人でいっぱいになったらしい。人の体温だけで、一気に室温が上がった。 藤井風に似た、かっこいいお兄さんがいる(ミナさんの友人のミナミだった)。 大学生くらいに見える人もいれば、どう見ても会社員らしい人もいる。スーツ姿ではないものの、見た目からして何か仕事をしていそうな人もいる。けれど、外見だけじゃどういう人なのか、どうやってここに来たのか、まったくわからない。 今日も知り合い同士の人たちがいる。ハヅキのときは男性二人だったが、今回は若い女性二人。ナガイさんの隣に座り、ずっとぺちゃくちゃ話している。心地よいホワイトノイズ。 19:00 開始! 奥から座ってもらうようにしておいてよかった。参加者が20人ほどになるなら、必ず奥から座ってもらったほうがよさそうだ。 私は今日も例によって、キッチンの隅に身体を押し込むようにして座る。四隅の中ではここがいちばん居心地がよく、ハヅキのイベントのときからずっとこの場所を取っている。ただ、一度入ってしまうと動きにくいため、いろいろな角度から写真を撮るのが難しいという欠点がある。また、円の外なので、角度によっては顔がよく見えない人もいる。 前回までは手書きでメモを取っていたのだが、ちょうど今日、メモ用紙を切らしてしまった。仕方なくキーボードを打つことになったので、音が邪魔にならないよう、そっと打とう。 19:04 「応答」のInstagramアカウントについての説明に続いて、永井さんの簡単な自己紹介。写真撮影に対して特に抵抗を示す人はいない。 「沖縄にも住んでいて…(中略)」という言葉を聞いて、軽くうなずく人がいる。もしかすると、永井さんのことを個人的に知っているのだろうか。永井さんの普段の活動に関心を寄せている人が何人かいるような印象を受ける。 みんな永井さんを見ている。 「かたんは、何かが落ちて床にぶつかる音にも似ている」と話した。 【事後メモ】 心はしばしば水面や深い海に喩えられるが、一方で「かたん」と聞くと、硬い大理石の床などを思い浮かべる。予想もしなかった風景や事実に出会ったとき、胸が「どきり」と落ちるような驚きを思わせる。普段から知っている誰かに対して思いがけず戸惑いを感じたときにも、心の中で「かたん」と何かが鳴ることがある。誰かの期待に応えられなかったことで、自分がどのような存在なのかを少しだけ知り、それまでなかった謎や疑問が加わったときにも「かたん」とする。 少し否定的なニュアンスを受けたりもする。ただ居るだけでもかたんしているとある人が言い、それは何故かポジティブに捕らえられた。それでも対話の中では「罪悪感」や「責任」という言葉が頻繁に登場した。 本来の意味である「加担」と結びつけて考えるなら、次のような「かたん」を思い浮かべることができる。ボーヴォワールは自伝『娘時代―ある女の回想』の中で、当時のシモーヌ・ヴェイユについてこのように回想している。「中国で大飢饉が起こり、その知らせを聞いてヴェイユが泣いたと、私は人から聞いた」。そしてボーヴォワールは、ヴェイユの哲学的才能以上にその涙に心を動かされ、「世界の果てまで鼓動することのできる心」を羨んだという(直訳すると、「全宇宙を横切って鼓動することのできる心臓」らしい)。 対話をしながら、「世界の果てまで鼓動することのできる心」の持ち主はシモーヌ・ヴェイユだけではないのだと気づいた。そのような心をある程度生まれつき持っている人もいる一方で、教育によって鍛えることもできるのではないかとも思った。 心の奥深くに「かたん」と何かが落ちて、消すことのできない痕跡を残すような体験になればいい。今日は「加担」について話し、「問い」を聴き合うことでこの場所を満たしていきたい。楽しみ。 なぜか終わったらものすごくお腹が空きそうな気がする。 共にいるだけのことは、たまには意識的な不断の努力を求めるらしい。そして、ここにいない人たちも、この思念の公園へ招くことができなければならない。 19:10 それぞれ、呼んでほしい名前を言い始めた。人数が多いので、少しコンパクトに進めた。けれど、たった一文の中にも、その人それぞれの背景を想像させる情報や個性が含まれている。素敵だ。 バイトでポップコーンを大量に作ったから「ポップコーン」と呼んでほしいというあの男性、絶対映画館のバイトだろう、と勝手に思ってしまった(笑)。 19:18 本格的に対話が始まる。 19:19 最初の発言者が現れるまでにかかった時間は30秒ほど。 始まりは家族の話だった。子どもの話。自分の子どもなのだが、ある出来事をきっかけに、それまでとは違う、まったく新しい印象を受けたという。最近、不登校の子どもたちと過ごす時間が増えた私は、彼女の話にとても共感した。 19:40 対話の途中には、5〜10秒ほどの沈黙が何度かあった。 トイレに行ったり、外に出て戻ってきたりする人。 座り直す人、しばらく床や宙を見つめている人。 ほとんどの人は、発言者のほうに身体や視線を向けていた。 頭の中からまとめて話すような人、携帯やノートにメモを取る人。 話す中でどんどん説明的になる人。 泣き出す人。 泣き出す人がいるとは、正直予想していなかった。そういう中でメモをとっているのが肩身が狭くなってしまい、一旦やめる。ティッシュを持っていこうかとは思ったが、行動には移せなかった。もしもっと自分の近くで泣いていたら、そうしていたかもしれない。 対話は続く。次の人に鳥の人形が飛ぶ。 手を宙で動かしたり、何かを区切るような身振りをしたりする。視線は正面より少し下に向いている。人形をすごくいじり続けている人もいる。 話しながら考えているような人。 待っていたかのように言葉を切り出す人。 20:23〜20:30 休憩 椅子の導入が急務だという意見をいただく。みんな腰が痛そう。 20:33 いきなり鳥の話から再開。いいテーマだ。頭が少し切り替わる。 21:08 いつの間にか終わっていた。みんな最初よりも活気があるように見える。 さよならする前 みんな立ち上がり、混んでた部屋がさらに混み合う。すぐ帰る人もいて、ぐずぐずと残って、永井さんを待つ人もいる。同じ本にサインを2回ももらう人もいる。 ある人はこう言った。 「かたんのことを考えると、やっぱり自分がいなくなる事をつい思ってしまう」 「わはは」と笑いながら、「それはさすがに行きすぎじゃない?」とでも言いたげに、照れくさそうに笑う永井さん。私はそれを聞いた途端、うつむいて、なんとなく足をもぞもぞと動かしていた。私は何故か恥ずかしいと思ってしまったようで、きっと身体が先に反応したのだと思う。
2026年8月7日(金)19:00-21:00
Wavesダイアログ「たいわでであう」
記録:やんう 18:55 人が一人、また一人と入ってくる。今のところ十人ほど。 ずしりとした空気の重さを肌で感じる。どこか張りつめた緊張感を感じるのは、私が緊張しているからだろうか。 黄色い照明が十五個ほど灯る下に、黒縁眼鏡をかけた人、バケットハットをかぶった人、スカートをはいた人、サラリーマンらしき人。あちらこちらで、一人、また一人と腰を下ろしていく。 息遣いひとつ聞こえない笑。時折聞こえる衣擦れの音、外を走り抜ける車の排気音。 玄関が開いては閉じること十数回。人が集まってくる。場が生まれる。 いつの間にか、人でいっぱいになった部屋。 18:57 「お!」と男の人が声を上げた。知り合いを見つけたらしい。互いを見つけ、ぱっと笑顔になる二人の男。バケットハットをかぶったほうが席を立ち、黒縁眼鏡の男の隣へ行って座る。 どうすれば気まずくなくここにいられるか、そのための思案だけが部屋を満たしているようだ。 眼球がころころと動く音を聞く。 19:27〜19:47 自己紹介の真っ最中。呼ばれたい名前と、この夏の思い出について話している。 脚を組んでいる人、身体を横に傾けている人。 ところどころで笑いが起こる。みんな何か一つずつ、自分の話にユーモアを装備している。やっぱりユーモアは大事だな〜。遠足に来た子どもたちがお弁当やお菓子を分け合うように、それぞれがユーモアを一つずつ場に置いていく。そのたびにみんなでハハホホと笑う。 久しぶりに帰った故郷で、見たことのない虫をたくさん見つけた人。梅干しが嫌いな人。12個入りの卵を残らず食べきると決意した人。「犬」という、うろうろ免罪符ができた人。毎年開かれている盆踊りが、当たり前のものではないのかもしれないと改めて感じた人。自転車がパンクしてフェリーに乗り遅れた人。 本日いちばんの遅刻者、登場。服装を見るかぎりサラリーマンらしい。お疲れさまです! 物を持たない人(部屋に冷蔵庫もないって)。人間の言葉がわかるヤギに出会った人。今日の昼、ニュージーランドへのワーキングホリデーを決め、そのままここへやってきた人。お気に入りの老舗を見つけた人。身長は日本男子平均なんだけど、腕だけは平均より5センチ長い人。 ここに集まった。 19:47〜19:50 休憩 飲み物を買いに行こうとしている人たちが見えたので、麦茶とりんごジュースがありますよ、と声をかけた。すると、少し遠慮がちに近づいてくる4、5人。ほかの人たちは、それぞれ自分の飲み物を持ってきているらしい。 りんごジュースが1人、お茶が4人。ちょうどグラスも5個あったので、紙コップを使わずに済んだ。 19:54 みんなが床に伏せ始めた。ハヅキの誘導に従って、ゆっくりと身体を持ち上げては、下ろしていく。(膝をついた瞬間、おならが出そうになって私はすばやく座り方を変えた。) 瞑想に入る準備をする、それぞれの身体の身振り。 手を頭の上へ。 「ふう…」という呼吸とともに、肩から力が落ちていく。 動き続ける目。落ち着いた目。 隣の人を真似してみる、慎重な身体の動き。 息のしやすい角度を探してみる。 もう目を閉じている人もいる。 器が鳴る。 「音が消える瞬間」を追いながら、静かに自分の内側へ沈んでいく人たち。 20:07 一人一行ずつ、気に入ったものを読む。声も、リズムも、選んだ一行も、すべて違う。 次は何が来るのだろう。 not yours!黄色い時間 私は何故かnot yoursの後ろに感嘆符をつけたくなる。 緊張してもおかしくないのに、誰一人、声を裏返さなかった。すごい! その後の詩を読む時間は、みんなの主観と客観が入り混じる、濃密な時間だった。それぞれの解釈や疑問が飛び交い、時には共感し、時には首をかしげながら、人の話に耳を傾ける。驚くほどの集中力だ。それぞれ忙しい一日を終えてここへ来たのだろう。それでも、四行の文章を前にすると、そこにはそれまでとはまったく別の日常が開かれたかのように、新しい世界の探究が始まっていった。